先生、教えて!Q&A

先生、教えて!Q&A 【第一弾】

【質問】
 西郷の局は、西郷で生まれたから「西郷の局」だと地域の人たちは思っているようなのですが、これが「西郷氏の養女」で「西郷の局」だとすると、そもそも、掛川市上西郷の「西郷」という地名は、なぜ、ついたのですか?
 「西郷の局」が生まれたから西郷の地名が後付けでついたのですか?

【答え】
 西郷という地名は、『山科家礼記』の記事により、少なくとも15世紀前半頃(室町時代)までさかのぼると考えられます。つまり西郷局が生まれるよりずっと前からあります。西郷局(同時代史料の『家忠日記』によれば「西郷殿」)の本名は「あい」ですが、西郷の出身であることから、家康周辺からは「西郷殿」と呼ばれていました。
 『掛川誌稿』(斎田茂先編纂個所)では、三河の西郷氏が移住したために西郷という地名になったと記していますが、具体的な史料を挙げているわけではなく、この記述は信じられません。また、西郷局が三河の西郷氏の養女となったという通説が信じられないというのは、以前の講演や拙稿「西郷局の出自と構江屋敷に関する一考察」(静岡産業大学情報学部研究紀要、インターネット上でもみれます)で明らかにしたところで、この論文については小和田哲男先生からも評価をいただいたのですが、私信だったために公表はしていません。
 西郷という地名の由来は『掛川誌稿』も考証しているのですが、明確な答えを出しているわけではありません。個人的に考えていることを以下に述べてみます。
 平安時代に小高御厨(後に小高荘)という伊勢神宮の荘園が開発されたのですが、その範囲は旧掛川市域の内の原野谷川流域を除く、東山口、旧掛川町、西郷、倉真など逆川や倉真川の流域だと考えられます。西郷の地は小高御厨の西部だったからではないかと思っています。それ以前にはおそらく日根郷と呼ばれていたのではないでしょうか。
 なお、市役所近くに小鷹の地名が残っていて、これが小高御厨の名前の由来と想像しています。小鷹は逆川と倉真川の合流地点の近くで、この仮説はいい線をいっていると思うのですが、小鷹の地名がどこまでさかのぼれるかがわからないので、確言はできません。

回答者:郷土史家 中山正清 

1962年掛川市上西郷滝の谷に生まれる。
掛川西高、大阪大学文学部史学科卒業。
時事通信社記者として地方行政、考古学を中心に取材。
静岡産業大学情報学部非常勤講師などを経歴。

松ヶ岡勉強会(以善会)、大日本報徳社資料整理委員
論文「西郷局の出自と構江屋敷に関する一考察」

先生、教えて!Q&A 【第二弾】

【質問】
 掛川市立西郷小学校から北に300ⅿほどのところにある五社神社は構江、石畑、石ケ谷地区の氏神様です。
 浜松城の近くにある秀忠公の産神様である五社神社は、於愛の方が浜松城に側室に上がった時に、於愛の方が五社大明神を浜松城内にお祀りしたいと申し出、許されて分身されたと掛川の五社神社には書かれています。
 しかし、浜松の五社神社にはその旨が記されていません。
 事の真偽をお教えください。

掛川市上西郷の五社神社

浜松城内の五社神社

【答え】
上西郷と浜松の五社神社について

 掛川市上西郷の五社神社は、『お国文書』の「正保二年奉行所宛上申書」に、「五社大明神様並弓箭八幡様両宮ハ御阿いこ様之御氏神ニ而御座候」つまり(上西郷村の)五社大明神と弓箭八幡は「おあいこ」様(西郷局)の氏神とあります[1]から、西郷局の氏神として間違いありません。

 浜松の五社神社は江戸時代から諏訪神社と隣り合っていて「五社諏訪」と併称されていました。現在は「五社神社 諏訪神社」という一つの法人であり、HPには五社神社は曳馬城(後の浜松城)主の久野越中守創建で徳川家康が天正7年(1579)の秀忠誕生に当たり産土神として崇敬、同8年に現在地に移ったと記しています。

また、延宝3年(1675)の五社神社棟札は「台徳院殿依為御降誕所之神」つまり台徳院(秀忠)が誕生した場所の神と記し[2]、『曳馬拾遺』(杉浦国頭著、18世紀前半)は、天正5年(1577)の浜松城改築の際に浜松城内から現在地に移転したとしています[3]

五社神社という名前の神社は他府県にもありますが、それほどポピュラーなものではありません。それが西郷局ゆかりの上西郷と浜松にあるということは、西郷局が浜松城の家康に召された後に、氏神である上西郷村の五社大明神を浜松に勧請したと考えるのが素直で、久野越中守創建という社伝は疑うべきでしょう。

なお、諏訪神社は享徳3年(1454)に信州諏訪湖から遠州中島に流れ着き、弘治2年(1556)に浜松宿に移って同地の鎮守となり、浜松で秀忠が生まれたと「諏訪神社延宝三年棟札」に記されています[4]から、まさに秀忠の産土神ということができます。

さて、『曳馬拾遺』の記述が正しいとすれば、西郷局が天正5年以前から家康の寵愛を受けていて、その氏神を浜松城内に祀ったということになります。とすれば、浜松の五社神社は西郷局の氏神であり同時に秀忠の産土神でもあるわけです。

 西郷局が家康の側室になった時期について『寛政重修諸家譜』[5]は天正63月、『以貴小伝』[6]は同年春としていますが、両書とも19世紀前半の成立です。西郷局に近い時代、近い人物が記したものに側室となった時期は書かれていませんから、天正5年以前に西郷局が家康の寵愛を受けていた可能性も否定できないのです。

 いずれにしても、西郷局の氏神が浜松に勧請されたということは、家康にとって西郷局が特別に大切な存在だったことを示しているといえるでしょう。

[1] 拙稿「西郷局の出自と構江屋敷に関する一考察」(『静岡産業大学情報学部研究紀要 18』所収)

[2] 『浜松市史 史料編二』(浜松市役所、1959年)

[3] 売捌所・谷島屋書店、1901

[4] 前掲『浜松市史 史料編二』

[5] 『寛政重修諸家譜 第六』(続群書類従完成会、1964年)西郷

[6] 『改定史籍集覧 纂録第五十』所収(近藤出版部、1936年)

回答者:郷土史家 中山正清

先生、教えて!Q&A 【第三弾】

【質問】
 於愛の方はとても美人であったと伝わっています。
 掛川市上西郷には「美人ケ谷(びじがや)」という地区があるのですが、もしかしたら、この地名は於愛の方と何か関係があるのですか?

【答え】
 「於愛の方(西郷局)がこの土地の出身だから「美人ケ谷」と名付けた」というのは、残念ながら地元の人のこじつけのようです。しかし、少なくとも19世紀初め頃には、於愛の方がこの土地の出身だから「美人ケ谷」という地名が付いたと伝承されていたということも事実のようです。以下に考察させていただきます。
 
○  ○  ○
 斎田茂先は『掛川誌稿』に、次のように記しています。
 鬢セカ谷ヲ今美人ケ谷ト云ハ転語ナリ。
 昔於愛ノ方(割註:後称西郷局)ノ出処ナレハ名ツクト云ハ、土俗ノ付会ナリ。
 検地帳ニビンセカ谷ニ作ル。鬢セカトハ俗ニ鬢ノ禿ケタルモノヲ云フ。山間ノ地名ナレハ、山ノハゲタル所ナトアリテ名ケシニヤアラン。

 意訳すれば以下のようになります。
 「ビンゼガ谷」とされていたのが変じて、今は「美人ケ谷」というようになった。
 昔、於愛の方(西郷局)がこの土地の出身だから「美人ケ谷」と名付けたというのは、地元の人のこじつけである。
 (近世初期に作られた)検地帳には「ビンセカ谷」と記されている。「鬢セカ」というのは、鬢(びん:頭の左右の側面の髪、耳の上の毛のこと)が禿げたことをいう。鬢ゼガ谷(美人ケ谷)というのは山間の地名なので、山の禿げた所などがあったために名付けられたのであろう。

 茂先は西郷局との関係を否定し、「美人ケ谷」はもともと「鬢ぜが谷(びんぜがや)」で、山の禿げたところがあったため、それにちなんで名付けられた地名だとしています。
 「鬢セカトハ俗ニ鬢ノ禿ケタルモノヲ云フ」というのは、「鬢せか」は「鬢を削(そ)ぐ」の訛りということでしょうか。

 一方、この記述から逆に、『掛川誌稿』の編纂が始まった19世紀初め頃、上西郷村では於愛の方がこの土地の出身だから「美人ケ谷」という地名が付いたと伝承していたことがわかります。徳川家康に愛された於愛の方だから美人であったはずだということで、このように伝えていたのでしょう。

  もとより伝承(口碑)ですから、於愛の方が美人ケ谷出身だという証拠にはなりません。しかし、「美人ケ谷」という非常に珍しい地名が、於愛の方と結び付けられていたというのは興味深いことだと思います。

(2023年6月7日)

回答者:郷土史家 中山正清

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