於愛の方ってこんな人

於愛の方ってこんな人

このページでは、文献、SNS等で於愛の方(西郷の局)についてどのように伝えられているかを、お伝えします。

静岡県掛川市上西郷2453−1 構江公民館

西郷の局の生誕地

徳川二代将軍秀忠公の御生母です。実父は掛川在で戸塚に住んだ
戸塚五郎太夫忠春、実母は三河五本松城主・西郷弾正左衛門正勝の娘で、戸塚家に嫁ぎました。
天文23年(1554年)、戸塚五郎忠春は「大森の戦い」で戦死しました。
その後、於愛(西郷局)の母は、於愛を連れて、服部平太正尚と再婚しました。
於愛もまた外祖父である西郷弾正左衛門正勝の孫となる義勝に嫁ぎ、二児をもうけました。
けれども、元亀2年(1571年)3月4日、夫の義勝が「竹広の戦い」で戦死。
そこで伯父の西郷清員(正勝の子供)の養女となりました。
その後浜松城に出仕し、徳川家康の目にとまり側室となりました。
徳川家康と西郷局の子供は、二代将軍秀忠公が天正7年(1579)4月4日に誕生。
尾張清洲藩主松平忠吉公が天正8年(1580)9月7日に誕生。
西郷局は、天正17年(1589)5月19日、浜松城内において病死しました。
徳川秀忠公が、二代将軍になると勅許を得て、「従一位一品大夫人」を贈ります。
竜泉寺は西郷局の法名をとり、寺名を宝台院と改め、三百石の寺領を与えられました。

静岡県掛川市上西郷2369 構江遊園地(公園)

西郷の局の父、戸塚五郎太夫忠治の墓がある観音寺跡地

昭和40年代まで石ヶ谷氏と西郷氏の菩提寺の観音寺がありましたが、現在は構江遊園地という公園になっています。
ここに西郷局(於愛の方)の父親である戸塚五郎太夫忠春と従姉妹であり紀州公(徳川頼宣公)の乳母であった於国の墓(供養塔)があります。

宝台院  (静岡県静岡市葵区常磐町2丁目13-2

宝台院は、徳川家康公の側室お愛の方(西郷の局)の菩提寺です。

西郷の局は、27歳より家康公に仕え、浜松城にあり、三方ヶ原の戦い、設楽原の戦い、小牧長久手の戦い等、家康公が最も苦難にあった時の浜松城の台所を仕切った人で、三河武士団に最も人望のあった糟糠の妻だった方です。また、二代将軍徳川秀忠公、尾張の松平忠吉公の生母でもあります。

由西郷局肖像(宝台院蔵)

祐崇上人龍泉寺を創寺84年を経て、徳川家康公の側室お愛の方(西郷の局)が、天正17年(1589)5月19日に駿府城にて逝去されました。
西郷の局は、27歳より家康公に仕え浜松城にあり、家康公の三方ヶ原の戦い、設楽原の戦い、小牧長久手の戦い等、家康公の最も苦難の時にあった浜松城の台所を仕切った人で、三河武士団に最も人望のあった糟糠の妻だった方です。

天正14年(1586)12月、西郷の局は、名実共に東海一の実力者となった家康公と共に駿府城入りをしました。しかし、西郷の局は駿府城に入ると又々苦労多く、疲れが重なり、天正17(1589)年5月、38歳という短い生涯を終えました。そして、御遺骸がこの龍泉寺に葬られました。

西郷の局は、2代将軍徳川秀忠公、尾張の松平忠吉公の生母でもあります。
徳川家康公は、天下を取った翌年、慶長9年(1604)に龍泉寺を柚の木から紺屋町に移し、朱印(寺社領の安堵)30石と自画像(現存)、そして父広忠から譲られた太刀(現存)を寄進し、17回忌の法要を営みました。その家康公も、元和2年(1616)に他界しましたが、その葬儀の副導師を龍泉寺六世典育上人が勤め、またその後の駿府での法事で導師を勤めました。家康公没後は2代将軍秀忠公が母の菩提寺を盛り立てました。
寛永5年(1628)、秀忠公は、現在の地に大伽藍を建て、大法要を営みました。この入仏供養に勅使が派遣され、西郷の局へ従一位の追贈があり、「宝台院殿一品大夫人」と戒名が改められました。また、寺名も金米山宝台院龍泉寺と「宝台院」が加わり、以来、「宝台院」と呼ばれるようになりました。

そしてこの時、寺格、寺法が制定され、江戸増上寺、駿府宝台院は徳川家当用の菩提寺となり、江戸城入りの時は十万石の格式を与えられ駿河国の觸頭(ぶれがしら)となりました。また、宝台院六世鏡誉上人が参内上洛の時、代々の住職は常に紫の衣を着るべしとの綸旨(天皇の意思・命令を伝える文書)が下されました。

【 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』】

西郷局(さいごうのつぼね)
天文21年(1552年)生(永禄4年(1561年)説もあり)
天正17年5月19日(1589年7月1日)没

戦国時代・安土桃山時代の女性。
父は戸塚忠春という。母は西郷氏(源姓土岐氏流三河西郷氏)。
通称はお愛の方
徳川家康の側室であり、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠、松平忠吉の生母として知られている。
院号は宝台院
(生涯)
三河西郷氏は、現在の豊橋市西郷校区辺りに本拠を置いていた。
西郷局の外祖父・西郷正勝の頃には、三河国内での影響力は今川義元の傘下で命脈を保っている程度にしか過ぎなかった。母は今川氏の命であろうか、遠江国の住人・戸塚忠春に嫁している。
成長して最初の夫に嫁したものの、先立たれて寡婦となっていた。
そこを、同じく正室に先立たれた従兄・西郷義勝の継室に望まれたという。義勝との間に1男1女をもうけている。一説には義勝が最初の夫であるとも言われる。
元亀2年(1571年)、武田氏の先遣・秋山虎繁の南進を阻むため、縁戚の菅沼定盈に協力した竹広合戦で、義勝が落命する。またしても未亡人となったが、彼女の産んだ男子は幼過ぎて家督が継げなかった。
やがて、叔父である西郷清員の養女として徳川家康の側室に望まれ、秀忠、忠吉を産んだ。
天正17年(1589年)に38歳で死去した。死後の寛永5年(1628年)になって、正一位が贈られた。当時の将軍・徳川家光は孫、翌年即位した明正天皇は曾孫に当たる。
西郷局は美人で、また温和誠実な人柄であり、家康の信頼厚く、周囲の家臣や侍女達にも好かれていた。また強度の近眼であったらしく、とりわけ盲目の女性に同情を寄せ、常に衣服飲食を施し生活を保護していた。そのため西郷局が死去すると、大勢の盲目の女性達が連日、寺門の前で彼女のために後生を祈ったという。
なお、不確定ではあるが西郷局の死因は、罪が不確定のまま殺害された家康の正室・築山殿に仕えていた侍女による暗殺、毒殺という説もある。
秀忠の異父兄に当たる彼女の残した男子は徳川頼宣付けになるなど、西郷一族は秀忠の治世で優遇される。しかし、秀忠が家康ほど長命でなかったため、その栄華は極めて短かった。叔父・清員の家系が、安房国東条藩の大名に取り立てられたのが最高である。ところが時代が流れて徳川綱吉の頃には勘気を被って大名の座から転落、5,000石の旗本となっている。徳川家宣の頃に5,000石を復権し、1万石に回復するが、その5,000石もいとも簡単に失い、元の5,000石に戻ったといわれている。

【 出典:静岡県歴史観光案内所 】

西郷局は徳川家康の側室、2代将軍徳川秀忠の生母で、天文21年(1552)に戸塚忠春(今川家家臣)と西郷正勝の娘との間に生まれ於愛と呼ばれました。忠春は天文23年(1554)に駿河国での北条氏康軍との「大森の戦い」で討死すると、於愛の母親は服部正尚と再婚します。於愛は服部家で育てられ従兄の西郷義勝と結婚して2児(一男一女:勝忠は2代将軍徳川秀忠の異父兄ではありましたが、後に紀州の徳川頼宣に仕えています。)を儲けましたが、義勝は徳川家康に従い元亀2年(1571)に竹広合戦で討死し、於愛は実家である服部家に戻っています。

徳川家康が服部家を訪れた際、於愛を見初めましたが、実親である戸塚忠春が今川家の家臣だった事から義勝の叔父にあたる西郷清員に一端養女とした上で、天正6年(1578)於愛27歳の時に浜松城(静岡県浜松市)に出仕し家康の側室となっています。家康の数いる側室の中で最も美しく寵愛を受け、翌、天正7年(1579)には後に2代将軍となる徳川秀忠、天正8年(1580)には後の尾張藩主となる松平忠吉を出産しています。天正14年(1586)に家康と共に駿府城に入り、天正17年(1589)に死去。享年38歳。

菩提は竜泉寺に葬られ法名「宝台院殿一品大夫人松誉定樹大禅定尼」から宝台院に改めてられ、秀忠が将軍に就任した後の寛永5年(1628)に正一位が贈られ、盛大な葬儀が行われています。西郷局の死因は長年の苦労が重なり疲労からくる病死とされますが、一説には西郷局とは逆に徳川家から排斥された上で殺害された正室築山殿の侍女が恨みと妬みから毒殺したとも云われています。宝台院の境内には西郷局之墓が残され静岡市指定文化財に指定されています。

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