江戸城裏鬼門鎮護 天龍寺

天龍寺は、東京都新宿区新宿にある曹洞宗の寺院です。
天龍寺の歴史は、五百七十余年前、開山春屋宗能和尚によって開かれた静岡・掛川の法泉寺に遡ります。その法泉寺七世の心翁永伝和尚の実父は、戦国の武将・戸塚五郎太夫忠春。その娘が徳川家康の側室で二代将軍秀忠の生母であるお愛の方(西郷の局、宝台院)です。
戸塚忠春は天文二十三年、今川義元が武田晴信を援けて、北条氏康と戦った時、今川方として出陣し、刈屋川の一戦で討死します。家康はその死を悼み、陣中でその法名である「西月友船大禅定門」の位牌を小刀で彫りました。これは現在も天龍寺開山堂に“家康鉈彫位牌”として祀られています。
家康は江戸入城した翌年の天正十九年、法泉寺を江戸に移し、寺名も天龍川にちなんで天龍寺と改め、お愛の方とその父、忠春公を供養する菩提寺としました。 最初の寺地は牛込納戸町の三万六千坪でしたが、天和三年の大火で類焼したので、現在地へ移転しました。寺格は十万石特遇、乗興御独礼の高い格式が与えられ、江戸城裏鬼門鎮護の上野寛永寺に対し、天龍寺は裏鬼門鎮護の寺として、その威を大いにふるったといいます。
また、天龍寺は“時の鐘”のお寺として、古くから江戸の人々に親しまれてきました。この鐘は、上野寛永寺、市ヶ谷八幡の鐘とともに江戸の三名鐘とうたわれています。

( https://www.14109.jp/tenryuji/ より転写しました)

本陣

山門

内陣

江戸城裏鬼門鎮護 天龍寺” に対して3件のコメントがあります。

  1. 愛好家 より:

    タイトルは「表鬼門」となっていますが、「裏鬼門」ではないでしょうか。
    〇 寛永寺 江戸城表鬼門鎮護
    〇 天龍寺 江戸城裏鬼門鎮護
    また、関七郎編『考証西郷局』(2015年)は、天龍寺について牛込→四谷→新宿と移転したと記載していますが、牛込→四谷(新宿)が正しい内容です。詳しくは新宿区教育委員会『新宿区文化財総合調査報告書』(3)(1977年)を参照してください。また、天龍寺の和尚となった心翁永傳は、隠居寺として湯島に真正寺を創設、その後、浅草に移転、さらに南千住に移転して現存しており、その由緒は天龍寺と同じ内容のものです。

  2. 愛好家 より:

    表題の「表鬼門」は「裏鬼門」ではないでしょうか。引用された本文ににおいて上野寛永寺は「表鬼門」、牛込天龍寺は「裏鬼門」になっています。また、関七郎編『考証西郷の局』は、天龍寺について牛込→四谷→新宿と移転したと記録されていますが、牛込→四谷(新宿)が正しい内容です。牛込から四谷(新宿)に移ったのは、天和3年2月16日の大火で類焼したのが原因であり、移転当時まだ内藤新宿が宿駅として成立していません。また、天龍寺文書によれば、天文23年11月8日、於愛の方の父親を、息子の心翁永傳が法泉寺に弔ったという由緒を記録しており、「お国文書」とは異なる内容です。その内容は一部、誤りもありますが(倉見領など)、信憑性が高いものです。詳しくは、新宿教育委員会『新宿区文化財総合調査』(三)(55~88頁)をご覧ください。

  3. 愛好家 より:

    表題の「表鬼門」は「裏鬼門」ではないでしょうか。本文をみると上野寛永寺は「表鬼門」、牛込天龍寺は「裏鬼門」となっています。また、関七郎『考証西郷局』は天龍寺について、牛込→四谷→新宿と移転したとされていますが、牛込→四谷(新宿)が正しい記載です。天龍寺が牛込から四谷先に移転したのは、天和3年(1683年)の大火で類焼したことが原因であり、当時、内藤新宿が宿駅として成立していません。また、天龍寺文書によれば、天文23年(1554年)11月8日、法泉寺七代心翁永傳が於愛の方の父親を焼香したと記録しています。これはお国文書と異なる内容です。天龍寺文書は一部記載の誤りもありますが、寺社書上や真正寺の由緒でも同様の記述となっており、現在、最も信憑性が高い資料の一つです。ここでは「大森出陳」とだけ記録されています。詳しくは新宿区教育委員会『新宿区文化財総合調査報告書』(三)(1977年、55~88頁)、新宿区生涯学習財団『天龍寺跡』2004年等をご覧ください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です